2011年1月10日月曜日

砂漠

生徒諸君!

たまには真面目に人生というものに向き合ってもいいじゃない。
そんな気分でございます。

以前、ある授業で、人生を変えた本を持ってこいと言われまして、いやはや一体どのような本を持って来ようかと悩んでいた時、僕がちょうどはまっていた伊坂幸太郎氏の『砂漠』にしようと思い、持っていくことにしました。

まぁ内容はネタばれになるのでここでは書きませんが、言ってしまえば大学生5人(+1?)のハートフル物語とでもいいましょうか、性格も何もかも全く違う5人の物語なのです。
僕は3週読んでいるのですが、未だに『砂漠』の意味がわからないのです。

僕に読解力がないのは、空が青い、太陽は明るい、俺のブログは面白くない、くらい当たり前のことなのであえて書く必要のないことなのですが、未だに『砂漠』の意味がつかめない。

1週目は文書力に驚き、2週目に名言の数々に圧倒され、3週目に砂漠の意味をつかもうとしているのですが…どうにもこうにも分からない。

『砂漠』の中にもこういう趣旨のことが書いてありました。
[人生というのは、あ~でもない、こ~でもないと頭をかきむしりながら悩むこと]と。
さらに、[頭の良い人ほど本質をつかもうとする。本質なんて複雑なのに]と。

この言葉達は3週目で気付いた言葉ですが、かなり深いです。
そこでも出るのですが、[宗教とかは簡単。何故はまってしまうのか、よくわかる。だって簡単だもん]と言う言葉ですよ。

大学からの人生なんて良くわからないものです。
だから皆不安なのです。でも大学までは、「あれしなさい、これしなさい」と言われ続けてきたので、自分であえて考える必要もない。というよりも、その方が圧倒的に楽なのです。
中学生の時に、制服が与えられて、着る服の自由が無くなったように思える一方で、選ばなくてもいい楽さがそこにはあったに違いない。

その点、大学を出ると、誰も道を記してくれる人なんていない。
その時突然、「私は道を知っているよ」という人物が現れる。本当に知っている人もいれば、疑わしい人もいますが。その人の教えにしたがえば、先行き不安な時代でも道がわかるので、楽なのです。

なるほど、そういう意味で、大学からの人生を[砂漠]と揶揄したのでしょう。
しかし驚くべきは、そういう趣旨での[砂漠]の使われ方以外にもいろいろな所で[砂漠]は登場する(ように僕の読解力では思える)のです。

ああ、良い言葉だなぁと思うのは、「僕たちがその気になれば砂漠に雪を降らせることだって余裕で出来るんですよ」という言葉ね。
なんていうか、全然意味が分かんないのに、これほどまでに心をわしづかみにしてしまう言葉はない。他のセリフも好きなんだけど、もっと長くて理屈っぽい。でもこの台詞にはジーンときました。
うわっ、かっけぇ…ってね。

本日は人生について考えてみるということなので…
先ほど書いたように、人生ってのは、あ~でもない、こ~でもないって頭をひねりながら、頭をかきむしりながら、悩みもだえ、苦しむ姿なんだってことです。
それはまるで、水もなく食料もなく、ましてや休める所もない、砂漠に立っているようなもの。
でもそんな砂漠の中でも、オアシスがある。それが友人なのです。

友人(恋人)の存在はその人の人生を豊かにするかどうかは分からない。
でもオアシスであることは確かだ。
悩み苦しむ時に、オアシスに行けば、救われるものです。そのオアシスで色んな事を考え、またどの方向に進もうか決めるのです。求めればそこに存在しているが、求めなければオアシスは現れない。ずっとオアシスの中にいてもしょうがない。

オアシスから一歩出ると、そこは砂漠。
ひたすら歩いて行って、そしてまた分からなくなる。悩んでもだえて苦しんで、またオアシスに行く。

結局その繰り返しなんだなぁって。
それが人生なんだなぁって。

その人の人生はその人のものだけど、
その人に関わる人もいるんだってことを忘れちゃいけない。

自分に向いてる仕事が何かよくわかんないけど、
これじゃないかなって思って、歩きだして、壁にぶつかって、必死に壁を乗り越えようとする人もいれば、迂回する道を通る人もいるし、違う道を通る人だっている。その場でうろうろしている人もいる。

人生なんて、そんなもんじゃないかな。
どうしよっかなって悩むのはそんなに悪いことじゃない。


でも時には道を知っている(風な)人に救いを求めて、楽になろうかなって思うこともあるかもしれない。そん時またこの考えも変わることだろう。そして今まで連絡を取っていた人達とも連絡を取らずに、一人で勝手に何かしてトラブルに巻き込まれて、みんなに心配をかけてしまうかもしれない。




なんてことはまるでない、はずだ。

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