2009年6月30日火曜日

歩くということ

無性にブログを書きたくなる時ないですか?
僕は今ちょうどその時です。

ばたばたしていて、忙しかった日々が過ぎると、ふと立ち止まって考えてしまう。

この人生に意味はあるのかと。
自分は何をするために生まれてきたのかと。

今非常に危うい状況に立っていた気がしてならない。
上に書いてある、哲学的なものを考える余裕すら無くなっていたのだ。
本当は、これらの質問について必至に考えるのが、大学生ではなかったのか?
ところが、日々の忙しさにかまけて、こういったことを考える余裕がなくなり、
目先のことばかりにとらわれてしまう。

もっと大きな目で自分を、世界を見つめることだ。
そして、この大きな世界の中で、自分はどういった存在なのかということを考えるべきだ。

悩んで悩んで悩んだ先に出てきた答えが、きっと自分の哲学になる。

どうやら僕は自分の出した答えに甘んじていたのかもしれない。
自分の中で出てきた哲学は、不変的なものではない。
日々変わっていく。
いつも不安がる必要がある。
これで本当にいいのかと。

自問自答してみてください。
時には立ち止まることも大切だ。
某3年B組の先生はこう言っている。
「歩くという言葉は、少し止まると書く」と。

一生懸命歩いてみよう。
そして考えてみよう。

2009年6月29日月曜日

ぶれる、ぶれない

こないだ広島に帰った。
今年はよく帰っている。
6月の最初に1回。
そしてこないだで2回。
これまでの僕とはえらい違いだ。

人は変わるもんだ。
昨日元気だと思っていたら、明日には病気にかかったり、
昨日はAと言ってたのに、今日になったらBと言う。

つまりそれが、それが成長なのかもしれない。
昔は食べれなかった椎茸が今は食べれるようになっている。
こんなものだ、人間なんて。

どういう気まぐれか知らないが、
時とともにに人は忘れるのだ、物事を。
時間が解決してくれるってのは、「そのことを人は忘れる」からだ。


だからこそ、ぶれない生き方をする人にあこがれを抱く。
いつまでも初心を忘れず、自分の生き方を貫き通す人間に憧れを抱く。

しかし、それだといつまでも成長できない。
ぬるま湯につかりすぎて、風邪をひいてしまう。


僕たちは、成長と安定という狭間の中で生きているのかもしれない。

2009年6月25日木曜日

神曲『天使達の歌』

クロージングムービーを作っている。
その時の曲をどうしようかと悩んでYoutubeでいろいろ聞いている。
すると、僕の知らないコブクロの曲が出てきた。
良く調べると、Liveでしかまだ発表されていない曲らしい。
『天使達の歌』という曲だ。
参考にURLを載せておく。
http://www.youtube.com/watch?v=6OHTihBq9vQ
暇な時に聞いてみたら良いだろう。
次のアルバムが楽しみだ。
神曲だと確信している。

しかし、Liveに行ってないからこういうことになるのだ。
少なくともDVDは購入しようと考えた一日だった。

2009年6月23日火曜日

ポエマーけいすけ

雨だ。
雨は嫌いという人がよくいる。
僕のように髪がグリッグリになる人は特に嫌いだろう。
しかし、雨が滅多に降らないところに行けば、雨は貴重なものだ。
自然というものは、起こるべくして起こるのであり、人に好かれるために(または嫌われるために)起きているのではない。
人間というのは、つくづく自分勝手な生き物なのだな。

2009年6月17日水曜日

ダジャレ王

最近ダジャレ王だ。
最近のお気に入りは…いや言うまい。
常に、何とかダジャレにならないか、と考えているのだ。
ダジャレを考えることはボケ防止に良いとされるが、
ボケ専門の僕がボケ防止してしまったら、僕には何が残るのだろうか?
不毛の大地だ。

しかし、考えるダジャレの質は決して高いとは言えない。
むしろ低俗だ。うざいだけだ。
そんな中ダジャレを言うのは何とも忍びないが、
人の目を気にしすぎて、自分の大切なものをどこかに忘れ去るのだけはしたくない。
僕はそう思っている。


って、ダジャレで締めんのかい!!

2009年6月10日水曜日

自分を示す漢字一文字

帰省の際に、某NHK番組の大河ドラマを見た。
直江兼続の一生を描く、天地人というドラマだ。
愛という一文字を兜に掲げるという戦乱の世では何とも奇妙な人である。
ただ、この一文字は、彼の「軸」のようなもの。
色んな人の「愛」を受け、これまで生きてきた彼を表す一文字だ。
僕はあまり兼続という方を知らないので、これが史実なのかすら分からないが、
漢字一文字で自分を表す言葉を見つけるというのは、何ともうらやましいものである。
自分ならいったいどういう字なのだろうか?ということをふと考えてしまう。

そういう自分を表す「something」は自分の手で見つけないといけないはずなのに、
ググってしまう自分がいる。
自分のアイデンティティを自分で探すことに疲れ、どこかに答えがあると感じてしまう。
振り返ってみれば、「B型の説明書」などのような本もベストセラーになったようだ。
ことわざにあるように、十人十色にも関わらず、そのような簡単な説明書でその人を定義づけるのは、
どうなのだろうか?
僕はB型だが、本によれば、A型の要素も入っているし、O型の要素も入っている、もちろんAB型の要素も。
人間なんて、簡単に説明ができるはずがない。

だから探そう、自分を表す漢字一文字を。
自分の手で。
きっと答えは自分の中にあるはずだから。

今のところ、僕を表す漢字は、「笑」ですね。
本気で考えてみました。
小学校から今まで、色んな友達に恵まれたが、友達の作り方にはいつも「笑」いがあり、
自分が幸せに感じるのは、「笑」っている時や人を「笑」わせている時だった。
モットーも、「花には水を、人には笑いを」だ。

みんなも自分の一文字を見つけてはいかかでしょう?

2009年6月8日月曜日

帰省

実家に帰った。
今回の目的は、関係修復である。
その目的は果たせたと思う。

今回の帰省で強く感じたのは、
「両親は、論理だけじゃ突き動かせない」ということである。

現代社会に住まう人たちにとって、
論理は非常に大切だ。
しかし、論理を追い求め過ぎてしまい、
感情の部分、「情」という部分を忘れさろうとしているのではないか?
自分も含め、「人間として」の部分を忘れてはならない。
そう、それが今回の収穫である。

人間として、だよ。人間として。

2009年6月4日木曜日

電卓という名の人生。

中間テストがあった。
しかもマーク試験だ。
いつもの通り、試験1週間前に掲示板や友人のおかげで知ることになった。
掲示板には「電卓持ち込み可」という言葉があったが、昨年のある授業(T経)では、電卓が要るにも関わらず、持ちこまず、必至で自分の頭と微分的考察で、電卓を打つ音の中耐え抜き、見事クリアした経験があり、今回もその作戦で行こうかなと思っていたが、さすがに二度も奇跡は起こるまいと思い、購入を決意した。そこで、昼休み過ぎに生協に行き、本格的な電卓を購入した。√計算も、log計算も、sinθ、cosθ、tanθも、累乗計算もできるC会社のすぐれものだ。
2000円近くで大きな買い物になった。
ところが、いざテスト会場に行ってみると、購入したはずの電卓がないではないか!!
あろうことか、BOXに置いてしまっていたのだ。
みんなに見せびらかし、自慢していたツケが回ったのだろう。

結局テストも電卓要らずの内容で、あの電卓は用済みということになりそうだ。

しかしこういう落ちになるとは、僕はこういう人生、こういうルートを通ることになるのだろう。
電卓だけに。

2009年6月3日水曜日

現代人は医者である

お腹が痛い。
そんなことは重要な問題ではない。
もっと重要な問題は、なぜお腹が痛いか、だ。
お腹がすいているからなのか、お腹いっぱいだからなのか、それともいつもの感じだからなのか…
それがわからないことには、対処のしようがない。

現代社会には、この腹痛のように、原因不明のことが多すぎる。
その一つ一つに「なぜか?」という疑問を投げかけ、その原因に合った対処をする必要がある。
現代人は医者に近いのかも知れない。
しかし、今本当にそれができているのだろうか?
今の社会の病理を見つけ、そこをつぶす努力をしているだろうか?
もう一度深く考えなおしてみてほしい。

最後に私は声を大にして言いたい。
とりあえず、トイレに行ってきます!と。

2009年6月1日月曜日

相手取る

BOXに行くと、N氏が続けて入ってきた。
N氏はPCが壊れたようで、大きなカメラ屋に修理を頼みに行ったらしい。
すると、「その型はもう置いてませんので、電話していただきますか?」と一喝されたとのこと。
まさにデジャブ。
僕の体験とまったく同じではないか!
大きなカメラ屋さん、気をつけた方がいいですよ。
また何かやったら、相手取りますよぉ…