毎日書かないといけないと思っておきながら、すぐに三日坊主になってしまいます。
今日は、昨日思ったことを書いてみようと思います。
昨日、仏教について習ったのですが、批判を恐れず書くと、仏教は3つ(ないしは4つ)の旗印からなるというらしいです。
それは、諸行無常(A)、諸法無我(B)、涅槃寂静(C)、(一切皆苦)であるということです。
(便宜上、(○)としておきました)
僕はこれを聞いておかしいと思いました。
なぜなら、(A)であるならば、(C)に至っても至っていないこととなるだろうし、そもそも(A)であるならば、この3つ(4つ)は真理ではないのではないか、と思ったのです。
まるで、「Aさんの言うことはすべて正しいとする。その時、Aさんは、「私の言うことは嘘である」と言った。」と同じことだと思ったわけです。
Aさんが言うことがすべて正しいのであれば、「○○」は正しいことになるが、それならば、「言うことは嘘」が正しいならば、Aさんの言うことは嘘である。という状況になる。
これは矛盾である。
(C)の状況に至った人物がこの世でまだ一人しかおらず、その人が言ったことが仏教なわけで、それならば、彼が言ったことは一体どのような意味を持つのか…
(A)であれば、仏教は自ら音を立てて崩れ落ちるだろう。
とすれば、前提条件を付ける必要がある。
あの3つの真理には、一つ大きな「但し」書きが必要だろう。
それは、「但し、3つ(4つ)が同時に真理として成り立つことは(A)の範疇にはない」(①)である。
つまり、(A)(B)(C)は同じ時間の流れの中には存在しえないのである。
(C)の状況に至った人物においては、肉体的な時間の流れは受けるものの、輪廻転生の鎖から断ち切れた異次元の世界に存在することになる。そういった状況は、(A)の範疇の外にあるのだ。
①を証明するならば、背理法を使ってみよう。
これより、「3つ(4つ)が同時に真理として成り立つことは(A)の範疇内に存在する」ことを証明する。
この対偶は、「(A)の範疇においては、3つ(4つ)が同時に真理として成り立つ」である。
この対偶が証明できればよい。
まず条件より、(A)は成り立つことは明らかである。
次に(B)であるが、(A)の状況にいる我は、常な状態ではありえないことより、無我と言える。ゆえに成り立つ。
(C)であるが、これまでの人類の中で(C)に至った人物が一人しか存在していないことより、データは不明である。さらに、(A)の範疇に存在するのであれば、(C)の状況に至った人物は常ではないかつ、無我であることより((B)が成り立つので)、寂静であることはない。
ゆえに、成り立たない。
であるとすれば、前提条件である、「(A)の範疇においては、3つ(4つ)が同時に真理として成り立つ」は間違っている。ゆえに、「但し、3つ(4つ)が同時に真理として成り立つことは(A)の範疇にはない」は正しい。
数学を何年も解かなかった者がする証明なので、穴があいていると思いますが、こうなりました。
僕のような人間からすると、「そんなんどうでもいいじゃん」と思いますが、面白いのは、こういった一見すると矛盾をはらんでいる仏教がインドから生まれたということです。
インドはゼロを発見したくらい素晴らしい数学環境にあり、数学の「真理らしい」姿に慣れ親しんでいるところであるはずなのに、この一貫すると矛盾しているものが生まれてしまったのです。
近代数学はヨーロッパで進歩を遂げたのはもしかしたら、一神教であることから、真理がある前提で物事を考える癖が付いていたからなんでしょうか。
日本ではおそらく、微分とかE=MC(2乗)なんて考えが出なかったのかもしれません。
そう考えると、数学の世界って面白いですな。
文化的背景から、発展してくるなんて…
そんなことを思っていた昨日でした。
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