2010年1月26日火曜日

教育者の条件

久しぶりに書きます。
今日は補講の授業を受けました。
特別活動についての授業で、兵庫県のある高校の話です。

あるミュージシャンの方が高校生のJazzクラブに行って指導したり、一緒にセッションしたり・・・
(まぁそれからそのミュージシャンの紹介などに行くのですが・・・)
そういう経験を経て、生徒たちはJazzの面白さにはまっていくという・・・

某ようこそ先輩という番組でもこういう感じの内容ですが、そういったときにいつも思うのが、
何でこういう人たちは生徒の心をつかむんだろうということです。
おそらく、その場はいつもと違う場ということで、ハレの場なんだろうと思うのです。
祝祭的な場ですか、そういう瞬間的な場なのです。
その授業はその一瞬でしか存在しない。再現することは出来ないのです。
そこに来る人が著名な方だから、荒れているところを見せることは出来ないという強迫観念から生徒や学校側が対応しているのではないかと思いますが、少なくともそういう人たちはやはり”タレント”なんだなと思うわけです。
人を惹きつける何かを持っている、特に自分の得意な分野に関して言えば、その奥深さも面白さも知っているからこそ、人にその部分を伝えることで惹きつけているのでしょう。

というか本来、授業というのはそういうものなのではないでしょうか?
先生はただ教えるのではなく、自分の分野の面白さを最大限伝えることが重要であり、
その場、空間は常にハレの場なのです。

常にハレの場とはおかしな話ですが、そういうものなのです。
だから、もう一回同じ授業をしてくれと言われても、出来ませんと答えるしかない。

そういうもんなのです。
教育者に必要なもの、それは技術だけでなく、熱いオモイなのです。
そこに打算も計算もない。

最近齋藤孝の本を読んでなるほどと思った一節がありました。
「教育者とは太陽たれ」
太陽は見返りを求めてエネルギーを放出しているのではない。
自分はこのことについてむちゃくちゃ教えたい!
すべてじゃなくていいから、そっから何かを得てもらえたらそれで十分!

こういう姿勢が教育者には必要だと言ってました。


こういう教育者になるためにも、自分の「分野」を作らないといけないなぁと思いました。
それは勉強だけじゃなくね。

2010年1月22日金曜日

友人の話

しばらくぶりで、ブログを書きます。
というのも、PCが新しくなったのです!
非常に快適。サクサク作業が進みます。

僕の友人の話ですが、
秋学期が始まってすぐの頃に、西門から自転車で校内に入ろうとしたらしいです。
そうすると、用務員の人が、「危ないよ!危ないよ!」と言ってたんですって。
「何が危ないんかな?」と思ってたら、突然友人の頭を何かが鷲づかみにしたらしいです。
「何や!」と思ったらなんとカラスが彼の頭を鷲づかみにしてたようです。
その時の彼の頭はパーマ。
巣と間違えたんですってねぇ・・・
その光景を見た用務員のおっさんは、「ほら言ったでしょ」と。

それを聞いた僕は身の危険を感じました。
カラスが僕の頭を狙っているんじゃないか、そう思った瞬間、駆け足に学校を立ち去りました。

自然界に住まうわれわれ人間は、自分たちの生活を向上させるために、他の動物たちを追いやってきた。今は、われわれ人間が他の動物たちから追いやられようとしているのではないか。
われわれ人間に明日はあるのだろうか。

2010年1月13日水曜日

久しぶりに数学ちっくなことをしてみると…

毎日書かないといけないと思っておきながら、すぐに三日坊主になってしまいます。
今日は、昨日思ったことを書いてみようと思います。
昨日、仏教について習ったのですが、批判を恐れず書くと、仏教は3つ(ないしは4つ)の旗印からなるというらしいです。
それは、諸行無常(A)、諸法無我(B)、涅槃寂静(C)、(一切皆苦)であるということです。
(便宜上、(○)としておきました)
僕はこれを聞いておかしいと思いました。
なぜなら、(A)であるならば、(C)に至っても至っていないこととなるだろうし、そもそも(A)であるならば、この3つ(4つ)は真理ではないのではないか、と思ったのです。
まるで、「Aさんの言うことはすべて正しいとする。その時、Aさんは、「私の言うことは嘘である」と言った。」と同じことだと思ったわけです。
Aさんが言うことがすべて正しいのであれば、「○○」は正しいことになるが、それならば、「言うことは嘘」が正しいならば、Aさんの言うことは嘘である。という状況になる。
これは矛盾である。

(C)の状況に至った人物がこの世でまだ一人しかおらず、その人が言ったことが仏教なわけで、それならば、彼が言ったことは一体どのような意味を持つのか…
(A)であれば、仏教は自ら音を立てて崩れ落ちるだろう。

とすれば、前提条件を付ける必要がある。
あの3つの真理には、一つ大きな「但し」書きが必要だろう。
それは、「但し、3つ(4つ)が同時に真理として成り立つことは(A)の範疇にはない」(①)である。
つまり、(A)(B)(C)は同じ時間の流れの中には存在しえないのである。
(C)の状況に至った人物においては、肉体的な時間の流れは受けるものの、輪廻転生の鎖から断ち切れた異次元の世界に存在することになる。そういった状況は、(A)の範疇の外にあるのだ。
①を証明するならば、背理法を使ってみよう。

これより、「3つ(4つ)が同時に真理として成り立つことは(A)の範疇内に存在する」ことを証明する。
この対偶は、「(A)の範疇においては、3つ(4つ)が同時に真理として成り立つ」である。
この対偶が証明できればよい。
まず条件より、(A)は成り立つことは明らかである。
次に(B)であるが、(A)の状況にいる我は、常な状態ではありえないことより、無我と言える。ゆえに成り立つ。
(C)であるが、これまでの人類の中で(C)に至った人物が一人しか存在していないことより、データは不明である。さらに、(A)の範疇に存在するのであれば、(C)の状況に至った人物は常ではないかつ、無我であることより((B)が成り立つので)、寂静であることはない。
ゆえに、成り立たない。
であるとすれば、前提条件である、「(A)の範疇においては、3つ(4つ)が同時に真理として成り立つ」は間違っている。ゆえに、「但し、3つ(4つ)が同時に真理として成り立つことは(A)の範疇にはない」は正しい。

数学を何年も解かなかった者がする証明なので、穴があいていると思いますが、こうなりました。

僕のような人間からすると、「そんなんどうでもいいじゃん」と思いますが、面白いのは、こういった一見すると矛盾をはらんでいる仏教がインドから生まれたということです。
インドはゼロを発見したくらい素晴らしい数学環境にあり、数学の「真理らしい」姿に慣れ親しんでいるところであるはずなのに、この一貫すると矛盾しているものが生まれてしまったのです。
近代数学はヨーロッパで進歩を遂げたのはもしかしたら、一神教であることから、真理がある前提で物事を考える癖が付いていたからなんでしょうか。
日本ではおそらく、微分とかE=MC(2乗)なんて考えが出なかったのかもしれません。

そう考えると、数学の世界って面白いですな。
文化的背景から、発展してくるなんて…

そんなことを思っていた昨日でした。